枯れた花も
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あるフリーペーパーにある写真家のエピソードが載っていた。
母校の小学校でトクベツ授業を頼まれたその写真家は、児童たちにカメラを渡し、
「一番嫌いな物を撮ってきましょう」と課題を出したらしい。
はじめ困惑した子供たちも、一生懸命自分の「嫌いなもの」をカメラに収めてきた。
そのひとつに、枯れて溶けたアジサイの写真があった。
「枯れたものは汚いからきらい」と言う子供に対し、「人も老いたら汚いの?」と問いかける写真家。厳しさと生き物全般への愛情があふれるエピソードに思えた。
metromin NO.21 撮りながら話そう 藤原新也より)



そのとき、以前自分でとったバラの写真を思い出したんだ。
なぜこの花を撮ろうと思ったのか正直覚えていない。
このバラは祖父の庭で大切に育てられていたバラ。
たくさんの客人をいつもいちばんに出迎えてきたはずの、バラ。
すこしずつ花びらのはじの方からいたみ始めたところ。
まだ枯れてはいないけど、確実にじきに枯れて落ちる。
でも、完璧に咲いた花よりも、美しく感じられるのは、なぜだろうか。

それは、
私自身が、「年をとること」を肯定したい気持ちの表れではないかと思った。

高校生の時、私には夢があって、毎日顔をあわせていたココロから信頼できる友達が回りにいて、悩みはたくさんあったけれど、今より汚いものを知らず、自分自身の汚さにも気付かず、ココロから打ち込めるものがあって、努力したぶん成果も得られて、人生のうちでとても輝いていたように思った。少なくとも、ひとにはそんな風に語ってしまう自分がいる。
今は、そのころより容姿に頓着するようになったけど、以前の純粋さを一部分失って、現実へのあきらめと、ずるがしこさと、猜疑心と、開き直りと、衰えつつあるからだを抱えて生きている。見ない振りをしていたそれらに目を向けるとき、どうしようもなく悲しくなる。
それでも、あのころといま、どちらが幸せか?と聞かれたら、「今」だといつも自信を持っていえる自分でありたい。30代になっても、40代になっても、おばあちゃんになっても、いつも「今が一番」でありたい。そのためには、としをとることで、自分が「より良く」ならなければならないだろう。

「若いし、まだなんとでもなる」って言う甘えはそろそろきかなくなるんじゃないかとひしひし感じるのだ。今する事、決める事のひとつひとつの重みがずっと増していて、出来なかったことから受けるリスクも大きくなってる。(車の運転とか、ダイエットとか、対人関係とか・・・)
守りに入ろう、っていうわけじゃない。リスクを計算に入れつつ挑戦する勇気も持っていたい。ただ、その前に私は甘えを取り除かないと、と思う。

はじめのエピソードから、だいぶずれてしまった。
枯れた花が美しくあるためには、そこまでの過程が精一杯やったものでなければならない。
そしてたとえからだは枯れつつあっても、ずっと向上していくことはできるはず。何を選び、何に打ち込み、どんな結果を手にするか、というこれからの自分しだい。
・・・ただ、枯れちゃうのはいやだなぁ。だから頑張る。それだけです。
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by suzumecco | 2004-07-28 01:26 | words
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